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	<title>言葉の海Ⓡ</title>
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		<title>動画でもなく音声でもなく、言葉を紡ぐことの意味</title>
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		<dc:creator><![CDATA[言葉の海]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 29 Sep 2026 09:24:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[Uncategorized]]></category>
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										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><br>　本記事は、主に経営者や個人で事業をされている方をイメージして書いています（が、かといって経営していない方にも読んでいただける内容だと思うので、せっかくこのページに来てくださったのならば読んでいってちょうだいよ、という氣持ちで書き始めました）。<br><br><br>　まず大前提ですが、経営をされている方において、「現代において発信は、しないよりもしたほうがいい」と、個人的には思います。既に多くの顧客を抱え、その必要がない方もおられるとは思いますが、発信することで経営にもたらされる恩恵があることも事実だからです。<br><br><br>　自分の存在を知ってもらうとか、何をしている人なのか理解してもらうとか、そのような意味もありますが、じゃあ、この超爆速で流行り廃りも移り変わりゆく現代において、<strong>ブログや本などに言葉を紡ぐ意味はあるのか？</strong>と、仕事柄もありますが、常々考えているわたしです。<br>　デジタルの急速な進化のおかげで、目まぐるしく情報は錯綜し、毎秒取捨選択を迫られ、ユーザーの目も肥えて「選ばせる」「見てもらう」のが難しい時代において、果たして、文章で想いや考えを伝えることに、どれほどの価値があるのだろうか、と。<br><br><br>　動画や音声配信には、視聴者側にとっては手軽さがあります。視覚情報はイメージしやすいですし、雰囲氣もわかりやすいですし、何より「観る」という行為自体が何ら苦労なく行われやすいという点においても、発信の手法としては理にかなっているでしょう。音声配信においても、いわゆるラジオと同じで、何か作業をしながらでも耳はそちらに傾けることができ、且つ有益な情報が入ってくるとなれば、効率的に鑑みても利用価値がある。<br><br><br>　一方で、この現代においては、文章というのは「タイパ」的には不利な状況です。「観る」ことに時間は割けても「読む」のに時間を割く人は少なくなっています。活字離れとか、いろいろなことを言われますが、まぁざっと大雑把にひとくくりにしてしまえば、「不人氣」なジャンルではあると思われます。<br><br><br>　さて、そんな状況を踏まえた上でわたしは申し上げたいのです。<br><br><br>　<strong>「言葉の力」ってやつは、すげぇんだぞと。<br>　「読ませる文章」が持つパワーってやつは、すげぇんだぞと。</strong><br><br><br>　文章の添削や、「これで言いたいことが伝わるか、ちょっと文章を見てほしい」という方にいつも申し上げているんですが、素直に純粋に書いた文章は、たとえ下手でも稚拙でも、伝わるものは伝わるんですよ。<br><br><br>　語彙力の問題じゃない。テクニックの問題じゃない。<br><strong>　伝わるかどうかを決めているのはエネルギー。</strong><br><br><br>　どうしたって、キレイにまとまりすぎてなんか氣持ち悪い文章だなとAIに感じるのは、エネルギーがないからです（これ、わかる人にはわかると思いますが）。　<br>　決してAIを批判しているわけではないのでご理解ください。わたしだってAI自体は使うので恩恵は受けています。でも、<strong>AIに自分の想いや氣持ちを100％そのままの熱量で代弁させることは、きっとできない。</strong><br><br><br>　「類は友を呼ぶ」って昔から言いますよね。よく言ったものだなぁと昔の賢者に感謝したいくらいです。その人にとって心地の良い似たようなエネルギーを持っているから、引き合って集まる。<br><br><br>　これは昔からある自然の摂理なのであって、文章でも同じことがいえると思うのです。<br><br><br>　あなたのことを「良いな」と思う人は、あなたの発するエネルギーを「良いな」と感じる。<br>　動画や音声でももちろん伝えることができる。むしろ、日常風景などであれば日頃の雰囲氣を伝えるのにも向いていると思います。<br>　だけど、<strong>文章に向き合うエネルギーとは、言い換えれば<span class="marker-under-red">内省（自己との対話）の結晶</span></strong>であって、動画や音声には込められない<strong><span class="marker-under-red">深み</span></strong>があるのです。<br><br><br>　トレンドやマーケティングを重視した見せ方を努力して修得するのも経営戦略の一つだけれど、そんなものが世の中に溢れてしまっているからこそ、その人が本氣で、本音で、机に噛り付いて絞り出した生々しい言葉の羅列を、求める人も少なくないのではないかと思うわけです。<br>　それを求める人たちというのは、他でもないあなたのエネルギーに惹きつけられる人たちです。真剣な想いに共鳴する人たちならば、「SNS上での相互フォロー」の関係ではきっと終わらない。何かしらの発展性のある関係が築ける可能性が高い人たちだと思います。<br>　特にわたしがライターをしていて感じるのは<strong>求人</strong>です。求職者は転職サイトやエージェントを使って次のステージを探していますが、真剣に候補として考える会社であればあるほど、<strong>社長のブログがあれば必ずといっていいほど読みに行きます</strong>（求人に関してはわかりやすく結果が出るので、またどこかのタイミングで書こうかと思います）。<br><br><br>　100万人に観てほしいのならば、その道のプロにお願いして広告に力をいれたらいいと思います。でももし、<strong><span class="marker-under-red">「たとえ10人でも、自分を必要としている人に確実に」届けたい</span>ならば、文章という形で言葉を残していくことを強くおすすめ</strong>します。しっかりとあなた自身のこと、あなたの仕事を知りたいと思う人は、<ruby><strong>意外と読みに来る</strong><rt>・・・・・・・・</rt></ruby>からです。<br><br><br>　ただ、そうはいっても本業が忙しくて書けない方も大勢いらっしゃる。だから、わたしみたいなライターが存在しているんだと思います。わたしは、楽しく且つ使命感を持って、真剣に事業をされている方のお話しを聴くのが好きです。「こんなステキな人がいますよー！」と縁結びをするつもりで書くのが好きなんです。<br>　エネルギーの話をしましたから、もちろんそういう意味でも、自分の言葉で書くのが一番いい。苦手な人だけ、誰かに頼ったらいい（そんなスタンスでライターをしております）。<br><br><br>　…と、ここまで熱弁をふるってきて元も子もないことを書きますが、あなたの魅力が伝わるならば、動画でも、音声配信でも、ブログでも、究極なんでもいいしどれでもいい。大事なのは自分に合うツールを選ぶことと、細く長く続けること。<br><br><br>　そして、正直であること。<br><br><br>　恰好つけたりせずに、自分の叶えたい夢や未来に、<br><br><br>　真っ直ぐでいること。<br><br><br>　<br><br>　</p>
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		<title>些細なことに本質は出る</title>
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		<dc:creator><![CDATA[言葉の海]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 14 Sep 2026 06:04:31 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[Uncategorized]]></category>
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					<description><![CDATA[　すごくわかったような、良いことを言う人ならいくらでもいる。 　昨今、SNSを見ていて特にそう感じる。　自分の経験や体験から得たことを真摯に伝えている人ももちろんいるが、付け焼刃だなぁと感じる人もいるし、どこかの誰かが言 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><br>　すごくわかったような、良いことを言う人ならいくらでもいる。<br><br><br>　昨今、SNSを見ていて特にそう感じる。<br>　自分の経験や体験から得たことを真摯に伝えている人ももちろんいるが、付け焼刃だなぁと感じる人もいるし、どこかの誰かが言ったことをそのまま丸パクリしたような投稿も、残念ながら見受けられる。<br><br><br>　表面に出ているものはほんのごく僅か、氷山の一角だ。人前では良いことを言っていても、家の中では真逆…なんてことはよくある。人の本質を見抜くのは難しいことだとは思うが、<strong>「本質はどうなんだろう」という目を持って物事を観ることなら、誰にでもできる。</strong><br><br><br>　最近は誰もがインスタントが好きだ。たとえばわたしがこうして書きつくっている文章も、長ければ長いほど、大概の人は読まないだろう。読むのが好きな人は読むだろうが、そもそも、インスタント慣れしている現代人は「タイパ」だとか「時短」だとかいう言葉が大好きだし、それが売りのものにはすぐに手を伸ばす。「これさえ食べれば（飲めば）痩せる」と言われれば鵜呑みにして売り切れにするほど買うし、そのくせインスタント慣れしているせいか、”すぐに” 結果が出なければ続けずにやめてしまう。<br><br><br>　「インスタント」恐るべし、である。こんな世の中に誰がしたんだろう。西洋化がもたらした産物の一つではなかろうか。<br><br><br>　おっと、話を戻そう。つまり、何でも簡単に、効率よく得られるものが好きな現代人は、<strong>自分で咀嚼し考えて自分のものにすることにとても怠惰で、だからこそ「本質」を見失う。</strong><br><br><br>　わたしの友人夫婦が、ある有名な神社へ参拝に行ったときの話を例にしよう。<br>　偶然にもその日、あるスピ系YouTuberがツアーをしていたらしい。友人夫婦はそのYouTuberのことは知っていたが、とくに興味はなかったので通り過ぎようとした。すると、ツアーの参加者ではない一般客がYouTuberを発見し、サインをもらおうとした。そのYouTuberはにこやかにサインをして一般客にサインを渡した…という話である。<br><br><br>　どうだろうか？この文章だけなら、何の問題もないだろう。しかし、このサインをした場所がまずもって問題であった。お社の前だったのである。そこは末社だったが、末社とはいえ、そこは某有名神社の末社であり、参拝客が非常に多いところである。声を掛けられ足を止めなければならないなら、先を譲って場所を変えるのがマナーである。そしてもっと良くなかったのは、友人夫婦の旦那さんとYouTuberがぶつかって旦那さんの足を踏んだらしいのだが、顔を見ただけで一瞥し謝りもせず、サインをし終わると笑いながらツアー客の輪の中に戻っていった、というのである。これには友人夫婦も怒りを通り越して引いていた。<br><br><br>　わたしはこのYouTuberを知っている。面識がある。だからわたしは、「嗚呼、あの方なら、やりそうだな」と思った。本質を見抜いているからである。日ごろ仰っているほどには、礼儀作法や行動が伴っていない方だとわたしは知っていた。だから距離を置いている。「神は細部に宿る」という言葉があるけれども、人の本質も、その人の些細な言動や行動に出るものだ。わたしは友人夫婦にこのYouTuberのことを悪く言ったことはないけれども、この話をしていた旦那さんは「あんな奴を信じて慕うスピ好きはどうかしてる」と怒っていた。<br><br><br>　近江商人の経営哲学である<strong>「三方良し」</strong>という言葉がある。売り手、買い手、世間の三者が満足することを良しとする哲学で、これは経営だけに限らず、さまざまな場面で用いて良い哲学といえる。<br><br><br>　このスピ系YouTuberはどうだったろうか？<br>　三方良しだったろうか？<br>　わたしにはそうは思えない。<br><br><br>　自分のファンのためにツアーをすること自体は別に問題ない。しかし、結果的に一般客には迷惑をかけている。足を踏んで謝りもしなかった他にも、集団で騒ぎながら神社内を歩いていたようである。集団になればある程度騒々しいのは仕方がないが、そういった礼儀作法を教えるのもツアーを率いる者の役目ではないのか？まして”スピ系”YouTuberである。そうやって周りの迷惑も考えられないで参拝されることを、神様は果たしてお喜びになるだろうか？───などと、わたしは想像するが、いかがだろうか。<br><br><br>　まぁ、そういう目線で考えられないから、やらかしているのだろう。<br><br><br>　そのYouTuberの動画を見てみたら、きっととても良い人そうに見えるだろう。しかし、見えないところではどうだろうか。人の足を踏んでおきながら詫びの一つも言えないようだ。<br>　余談ではあるが件のYouTuber。金銭トラブル、人間関係のトラブルもいくらか聞き及んでいる。スピ系の中にはお金やパートナーシップについて引き寄せ云々を語る人も多いが、裏側では結構ドロドロしている人も多い。<br><br><br>　こういうところに本質は出るのだし、こういうところを、<strong>”観る人は観ている”</strong>のである。<br><br><br>　スピリチュアル業界って何だろうね、と思う。全うに活動されている方ももちろんいらっしゃるが、やはり人としてそれはどうなんだ？という視点において、目に余る人は信頼してはいけないように思う。<br><br><br>　すごくわかったような、良いことを言う人ならいくらでもいる。<br>　すべてを疑ってかかれとは言わないけれども、やたらに人を集めて何かしたがる人ほど、注意深く本質を見抜きたいものである。<br><br><br>　<br><br><br>　</p>
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		<title>AIで作った文章が誤送信されたときに起こること</title>
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		<dc:creator><![CDATA[言葉の海]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 26 Aug 2026 01:18:36 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[Uncategorized]]></category>
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					<description><![CDATA[　AIの普及は甚だ凄まじい。あまり好きではないが、わたしも場面によってはお世話になっている。　調べものをするとき。お堅い文書の雛型をさくっと作りたいとき（内容ではなく型として）。要点をまとめて表にしたり図式化したいとき。 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><br><br><br>　AIの普及は甚だ凄まじい。あまり好きではないが、わたしも場面によってはお世話になっている。<br>　調べものをするとき。お堅い文書の雛型をさくっと作りたいとき（内容ではなく型として）。要点をまとめて表にしたり図式化したいとき。あまりないけれど、画像を生成したいとき。<br>　しかし、自分の想いや考えをAIに書いてもらったこと、要約してもらったことは一度もない。指示するより自分で書いたほうがきっと早いし絶対に正確だと断言できる。…というかそれ以前に、書くのが好きだから自分で書いてしまう、という側面も強い氣がするが、そのせいかわたしのAIの利用目的の中に、「言語化」は存在しない。メールの返信を考えてもらうとか、「この人にこういうことを説明したいんだけどどう伝えたらいいか」など、AIに「言語化」を求めるシチュエーションはおそらくこんな感じだろう。<br><br><br>　上記のようにわたしは自前で作文するので、氣心知れた人とのメッセージのやりとりから仕事のメールまで、すべて本人が書いているだろうと信じて疑わなかったわけだけれど、先日こんな話を友人Aさんから聞いた。<br><br><br>　AさんはビジネスパートナーだったBさんから、ある時メッセージが送られてきた。AさんとBさん、現在はビジネスを共にしていないのだが喧嘩別れしたわけではなく、積み重なった出来事が原因で信頼関係を維持するのが難しくなり、Aさんの方から距離を置いている、という状態にあった。メッセージの内容は、BさんがAさんに対して過去に失礼な態度をとったことへの謝罪と、これからも応援していただけたら嬉しい、という趣旨の至極丁寧で低姿勢なものだった。<br><br><br>　しかし、メッセージの冒頭にはこう書かれていた。<br><br><br>　「BさんとAさんのこれまでの関係性と起きたことを整理し、謝罪も含めたメッセージを以下にご提案します」<br><br><br>　これを見たAさん、怒りも呆れも通り越してドン引きである（苦笑）。<br>　送られてきたメッセージは、Bさん自身が考えて書いたものではなく、AIに任せたものであることは自明だった。やってんなぁBさん…。絶対にやってはいけない mistake。謝罪文だっただけに余計にAさんとの仲をこじらせかねない mistake。うっかりやっちまったでは済まされない mistake。<br>　「別にいいんだけど…なんだかすごく残念な氣持ちになるよね」と、Aさんは仰っていた。激しく同意である。このAさんの仰っていたことをもう少しだけ解像度を上げるなら、「別に<strong>AIで作った文章を送るのは</strong>いいんだけど…なんだかすごく<strong>雑に扱われた氣がして</strong>残念な氣持ちになるよね」、という具合になるだろう。<br><br><br>　本当にBさんがAさんを雑に扱ったのかどうかは、誰にもわからない。<br>　むしろBさんは、本当に謝罪したいと思っていた可能性も大いにある。けれど文章を書くのが苦手で、AIを使ったのかもしれない。AIで作文したほうが、自分が言語化するよりもはるかに読みやすく丁寧な文章になるのなら、そのほうが読み手であるAさんに氣持ちが伝わるかも、と考えたのかもしれない。<br>　一方で、謝罪はしたほうがいいとわかっているけれど、文章を考えるのは面倒と思った可能性もある。そこで安易にAIを使って作文し、送ってはいけない文章まで送ってしまった、とも考えられる。送信する前に読み返せばこんな凡ミスはなかったと思うのだが…と、わたしまで残念な氣持ちになる。<br>　ここに書いているBさんの背景はどれも憶測で、もっと他の事情や思惑があった可能性もある。想像の域を出ないことをつらつらと書いても仕方がないが、いずれにせよ「AIで謝罪文作成→内容確認→採用→コピペ→読み返さずに送信→自爆」という結果に至ったことは事実で、作文目的でAIをよく使う方は氣をつけたいところだろう。<br><br><br>　自分で考えたわけではないことを、あたかも自分が本当にそう思っている、感じているかのように勘違いしてしまうところが、このデジタル時代の怖いところだ。AIにしろ、SNSにしろ、よく考えなくても簡単に情報が流れ込んで来るものだから、誰かの考えや言っていることを咀嚼せずに「自分の考え」のように思い込んではいないだろうか。<br>　Bさんにしろ、「謝罪したい」という氣持ちはあったにせよ、AIに投げ込んで示された謝罪文はAIが作成したものであって、Bさんが考えたものでもBさんが思っていたことでもない。「そうそう、それが言いたかったの！」と、自分が思っている<ruby>っぽい<rt>・・・</rt></ruby>ことを言語化してもらえたと勘違いしたんだろうなと想像するし、その文章そのものを自分が書いたように錯覚して、確認を怠って送信してしまったのかな…と、これまた想像の域を出ないことを考えてしまう。<br>　残念ながら結果的に、自爆したことによって全く誠意が伝わらなかったどころか信頼は完全に失われ、AIを使った素晴らしい謝罪文も無駄になってしまった。<br><br><br>　誠意ってなんだろうかと、ここでふと思う。<br>　本当に誠意を持って文章を書くならAIを使うな、なんてことが言いたいのではない。何でも簡単にできてしまう時代だからこそ、自ら創造した部分が見えてこないと「インスタント感」が出てしまい、近しい相手ほどそれを「雑に扱われている」ように感じるのかもしれない。<br><br><br>　Bさんにわたしが思うことは、本氣で修復したい関係がある、心から謝罪したいと思っているならば、拙くても下手でも、手紙にでもしたほうが余程誠意は伝わった、ということだ。時間はかかるし労力もかかるだろうけれど、AIに任せていいことと自ら筆を執ったほうがいいこととを、間違えてはいけない。AIが発達したからって、手書きの文字を書いていけないわけではない。むしろこんなにデジタルに溢れている現代だからこそ、アナログな手法のほうが喜ばれることもある。<br><br><br>　デジタルに頼ってばかりでは人間本来の創造が<ruby>鈍<rt>なま</rt></ruby>る。<br>　人と人とのアナログな繋がりに、今一度想いを馳せてはどうか。</p>



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		<title>甥とパルテノン神殿とわたし</title>
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		<dc:creator><![CDATA[言葉の海]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 25 Aug 2026 03:24:57 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[Uncategorized]]></category>
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					<description><![CDATA[　先日、お客様がお孫さんのお話しをされていた。　お孫さんの鼻をティッシュで拭いたときに、「痛くないか？」と聞いたら、「痛い・ない」と言ったそうだ。「否定をするのに”ない”を付けたらいいんだってわかってるんだ！と思って、感 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
<p class="wp-block-paragraph"><br>　先日、お客様がお孫さんのお話しをされていた。<br>　お孫さんの鼻をティッシュで拭いたときに、「痛くないか？」と聞いたら、「痛<ruby>い<rt>・</rt></ruby>ない」と言ったそうだ。「否定をするのに”ない”を付けたらいいんだってわかってるんだ！と思って、感動した」と仰っていた。「痛<ruby>く<rt>・</rt></ruby>ない」への変換はまだできないけれど、どうしたら否定できるか？については理解しているらしい。<br><br><br>　子どもの言語習得は興味深い。わたしは言語学者でもないし詳しいことはわからないけれど、子どもと話していて驚かされた経験はいくらかある。<br><br><br>　初めてできた甥が2、3歳の頃のこと。<br>　わたしは休日を実家で過ごし、甥の面倒を見ていた。やんちゃな甥の体力を消耗せんと遊びに遊んだが不覚にも自らの体力を先に消耗させてしまい、母が帰宅してそちらに甥の氣が向いたのと同時にリビングから和室へと移動（≒避難）し、ぼんやりとテレビを観ていた。<br>　割とすぐに「ねーね（わたし）がいない！」ことに氣づかれて和室に移動してきた甥は、ドスンと音を立てんばかりにわたしの膝に座り、一緒にテレビを観始めた。<br><br><br>　詳細な内容は忘れたが、眺めていたのはパルテノン神殿を題材にしたドキュメンタリー番組だった。「最新の研究で、パルテノン神殿は白くなかった可能性がある」といったもので、かなりカラフルなイメージ映像もあってわたしは驚いた。「へー白くなかったんだー」とか、そんなことを口走ったような氣がするが、それを聞いたからなのか、膝に座った甥がわたしを振り返ってこう言った。<br><br><br>　「このおうち、こわれてるね」<br><br><br>　「そうだねぇ壊れてるねぇ」と言いながらもわたしは心の中で叫んでいた。<br><br><br>　ぬお！？え、今なんつった！？<br>　「<ruby>おうちがこわれてる<rt>・・・・・・・・・</rt></ruby>」だって！？<br><br><br>　パルテノン神殿を見て「これは建物だ」と甥は認識していた。建物を表す言葉が甥の中では「おうち」であり、次いで荒廃した様子を彼は「こわれてる」と表現したのである。驚くなかれ、まず甥はギリシャ生まれではない。よってパルテノン神殿を見たのはこれがおそらく初めてだったであろう。生粋の日本生まれ日本育ち。ギリシャの世界遺産であるパルテノン神殿を見て、建物であると理解したことにわたしは感動した。だって、そもそも似た建物を見たことがあったか？可能性は低いと思った。見たことがあったとて、彼が生活の中で目にする建物のそれと異なる様相をしているパルテノン神殿を、「建物」と認識できるだけの知見が、一体その小さな体のどこにあったのだろう。<br>　そして個人的には「こわれてる」という表現の方に、殊更に興味が湧いた。壊れているという状態は、「元の状態から、何らかの理由で原形を留めていない」ことを示唆する表現である。「こわれてる」と言ったということは、「過去に別の状態だった。それが何らかの理由で維持されていない」と彼の中で結論づいたのだと推測される。<br><br><br>　どうやって、何を見て、何を聞いたら、パルテノン神殿を見て「おうち、こわれてる」と表現できるようになるのだろう。何を言っているのか、どうしたいのか、何に泣いているのか、何に怒っているのか、大人であるわたしたちも理解できないことが多い彼の思考、行動、言動が、何をどうやったらパルテノン神殿を「おうち、こわれてる」と表現するに至らせたのだろう、と、取り留めもないことを静かに興奮しながら考えたものだ。おかげさまで番組の内容はこれっぽちも覚えていない。<br><br><br>　自分も、誰かも、こうやって氣づかないうちに、たくさんのものを吸収して成長したのだと思う。その成長の度合いもスピードも人それぞれだけれど、間違いなく少しずつでも、取り巻く世界を理解してきたのだと思う。愛しい日々である。氣づかにここに来てしまったことに、少々切なくなる。<br>　この甥とのやりとりはもう10年以上前の話だが、今も鮮明にわたしの記憶に残っている。声変わり前のあどけない甥の声を聞くわたしの耳が、小さな頭を覆うサラサラの髪を撫でたわたしの手が、この何氣ない日常を憶えている。パルテノン神殿のように真っ白にはならずとも、少し色褪せてセピアになった想い出。人の記憶に色があるならば、時間の経過とともに真っ白に向かっていくのかもしれない。真っ白にならないでほしい想い出も、真っ白にしてしまいたい出来事も、きっと人間にはいくらでもある。でも、彩られたあの瞬間に感じたことを、いつまでも愛おしく感じていられる自分でいたいと思う。懐かしさや過去に囚われるのではなく、「あんなに幸せな瞬間をくれてありがとう」と、思い出した時に思える自分でいたい。<br><br><br>　甥は中学生になり、あまり話してくれなくなったし、あんなに一緒に写真を撮ったのに、最近では写りたがらない難しいお年頃になってきた。それでも可愛い甥っ子に変わりはないのだけれど、あの頃、彼との交流の中でわたしがさまざまに考えさせられたことを、もう少し大きくなったら、いつか教えてあげたいと思う。<br><br><br>　<br><br><br>　<br>　<br>　</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>
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		<title>静謐に、淡々と、声を上げろ</title>
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		<dc:creator><![CDATA[言葉の海]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 09 Aug 2026 01:21:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[Uncategorized]]></category>
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					<description><![CDATA[　今朝、唐突に湧き上がった言葉。 　静謐に、淡々と、声を上げろ。 　何のことだろうと思いつつ、とりあえずキーボードを叩きながら内省していこうということで、あまり考えずにこれを書いている。まとまるか？やってみよう。 　中小 [&#8230;]]]></description>
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<p class="wp-block-paragraph"><br>　今朝、唐突に湧き上がった言葉。<br><br><br>　<strong>静謐に、淡々と、声を上げろ。</strong><br><br><br>　何のことだろうと思いつつ、とりあえずキーボードを叩きながら内省していこうということで、あまり考えずにこれを書いている。まとまるか？やってみよう。<br><br><br>　中小企業経営者、個人事業主の方々の「言語化」をさせていただくようになって7年目になる。<br>　経営コンサルタント、ITコンサルタント、講師業、建設業、運送業、地域コーディネーター、カウンセラー、セラピスト、などなど……<br>　さまざまな業界、業種の方々の想いを聴き、言語化する中で、本当にいろいろなことを学ばせていただいた。自ら経営をされる方はそれぞれに個性があり強い信念がある。手に届く範囲の方の幸せから地球規模の豊かさのことまで、それぞれのフィールドでご自身の想いや夢を表現されている。<br><br><br>　わたしが大切にしてきたことは、クライアントさんの先にいるお客様や、未来も含めお仲間の方々に、クライアントさんの「核」になっている想いをお伝えすること。ご本人が言葉にしてもなかなか伝わらないこと───それは、往々にして抽象的な概念だったりするので、言語化しづらいもの───を、言葉を尽くしてイメージさせる。そうして、「嗚呼、この人ステキだな」「会ってみたいな」「一緒に仕事してみたいな」と思っていただくこと。<br>　相手がどれだけ近しい相手であっても、どんなに言葉を尽くしても、伝わらないものは伝わらない。それは言葉足らずが原因であることもあるし、相手に理解できる言葉を選んでいないこともある。<br>　「伝える」って言葉で書くと簡単だけれど、伝えたい相手の人柄や性格、日頃どんな言葉を使っているかや、相手のその時の状態や状況、伝えるときの環境（場）なんかも影響するし、相手だけではなく自分のコンディションも考慮すると、「伝える」という行動一つが扱う情報は多く、決して簡単なことではない。こう考えると「伝える」って、超絶ハイスペックアクション。<br><br><br>　それでも、声を上げなければならない。<br>　特に、この混迷の時代に、中小企業が支えてきた、いや今も支え続けている日本という国では、中小企業経営者（個人事業主も含め）の声こそ、届けてもらわねばとわたしは思う。<br><br><br>　コスパだのタイパだのという言葉が常用されるようになって久しい。それが悪いことだとは思わない。人間が作業するよりも正確に、しかも速く達成されるタスクならば機械に任せたほうがいい。だけれど、どんなに時代の流れが目まぐるしく巡ろうとも、削ってはいけないコストは存在する。<br><br><br>　「丁寧に伝える」ことは、その典型例だ。<br><br><br>　AIが普及すればするほど、文章の作成も画像の作成も…何もかもAIに頼るようになってきた。ライターのわたしでさえ、公的な文書の雛型などを作成してもらうと、そのクオリティに唸ってしまうほどだ（もちろんそのままは使えないし使わないけれど）。<br>　言語化しづらい想いをふわっと書いて「良い感じに仕上げてほしい」とでもAIに投げかければ、”整った” 文章がものの数秒で出来上がる。確かにスゲェ。便利。速い。楽勝じゃん、と最初は思う。<br><br><br>　だけど、翌日に読み返すと、なんだかキモチワルイ。違和感がある。こんなことが言いたかったんだっけ？と思うこともある。<br>　この違和感の正体は、AIに提案された文章は「それっぽく」言語化されているだけで、<strong>「核心」を突くものではない</strong>からだ、とわたしは考えている。別に、AIは指示されたとおりに、学習の範囲内で仕事をしているだけなのだが、やはり人間という複雑極まりない生き物たちの生態を ”真似” たところで、千差万別の人間の想いを情緒豊かに伝える文章を作ることは、（少なくとも現時点では）できないのではないかとわたしは思っている。<br><br><br>　たどたどしい文章や、決して読みやすくない下手な文章でも、その人の持つ熱意や想いが伝わることは往々にしてある。<br>　たとえば贈り物をくださった相手にお礼を述べるときに、「嬉しかったです」でもいいけれど、砕けた表現を使っても良い間柄ならば、「超！超！超！超！ハッピーでした！！！」と書いたほうが伝わる場合だってある。もちろん、AIにこのような差を学習させれば簡単にできるようになるのだろう。実際、AIの会話や作成する文章はどんどん自然になっている。だけれど、自分の「核」になる想いを、AIに任せるのは違うと思う。<br><br><br>　自分の内側で小さくても燃え続ける想いを、灯し続けた希望を、湧き上がる夢を、<strong>あなたの言葉であなたが語らないでどうする。</strong>AIに語らせるなんて怠慢だ。三ツ星ホテルのシェフがいるレストランでインスタント食品を温めて出すようなものである。食べたいか？わたしは食べたくない。<br>　いくら美味しそうであったとしても、インスタントをシェフの料理だとは思えないのと同じで、AIで書かれた文章を<ruby>あなたの想い<rt>・・・・・・</rt></ruby>として受け取ることは、わたしにはできない。<br>　たとえ三次元世界でまだ形になっていなくても、<strong>想いや希望や夢は、人間にしか描けない一つの創造だ。</strong>その領域をAIに任せてはいけない。コスパやタイパを理由に、そこにAIを導入しないでくれよと、わたしは声を上げたい。<br><br><br>　日本の経済を支え、つくってきた中小企業経営者の皆さん。<br>　どうか、声を上げてください。<br>　ここでいう「声を上げる」とは、自分の正義を語り、異なる意見の者たちとぶつかり合うことではありません。<br>　静謐に、淡々と、<strong><span class="marker-under-red">魂から湧き上がる想いを、ご自身の言葉で伝えるだけでいい</span></strong>のです。<br>　それが人々のために、社会のために、日本のためになることならば、その言葉は必要な人に届くでしょう。良い影響を与えるでしょう。その想いを、夢を、実現するために現実は動いていくのです。<br><br><br>　日本がこれ以上おかしな方向にいかないように。日本という国の素晴らしさを、日本人の素晴らしさを、経営を通して体現してください。<br>　<br><br>　混迷の時代を楽しみながら、共に生きましょう。<br><br><br>　</p>



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		<title>SNSから浮かび上がる、現代人に足りないもの</title>
		<link>https://kotobanoumi.jp/interact-with-social-media/</link>
		
		<dc:creator><![CDATA[言葉の海]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 02 Aug 2026 08:18:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[Uncategorized]]></category>
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					<description><![CDATA[　傘を閉じ、地下へと続く階段を下りていく。　地下街。百貨店のショーウィンドウ。催事用に浴衣を着せられたマネキンは、浴衣の柄によく似合う、これまた柄の、マスクをしている。 　そもそも浴衣にマスクが似合うかと問われたら、首を [&#8230;]]]></description>
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<p class="is-style-border-thin-and-thick has-border wp-block-paragraph"><br>　傘を閉じ、地下へと続く階段を下りていく。<br>　地下街。百貨店のショーウィンドウ。催事用に浴衣を着せられたマネキンは、浴衣の柄によく似合う、これまた柄の、マスクをしている。<br><br><br>　そもそも浴衣にマスクが似合うかと問われたら、首を縦に振りたくはない。浴衣には帯を。手には水風船とうちわを。あるいはお面とわたがしにしてほしいし、顔にはマスクではなく花火に染まる、笑顔がいい。<br><br><br>　花火大会などのイベントは軒並み中止で、どこで浴衣を着るのだろうかと考えるけれども、もし浴衣姿になれたとて、花火を見上げて緩んだ頬を伺い知れない夏。生きている間にそうそう、こんな夏はないのだろうと、マネキンに『今日もお疲れ』と、ガラス越しに氣持ちだけ置いて、今日のワタシをひとつ、落とす。<br><br><br><br><br><br>────────────────────<br><br><br>久々に、書店へ行った。<br><br><br>　卒業アルバムの自己紹介欄に『生息地：本屋』と書かれた過去が嘘のように、自粛のおかげで生息地ではなくなったようだ。<br><br><br>　愛すべき人文学のエリアが漫画の陣地拡大によりほぼ消失しており、実に面白みがなく魅力のない書店と化していた。漫画に文句を言っているのではないが、知っていたら他の書店へ行った。ここなら、少しマニアックな小説でもあったのに。秘密基地がなくなったような、寂しさがあった。<br><br><br>　しかし本屋はいい。<strong>何を読みたいかで、無意識に探すもので、今の自分が何を欲しているのかが、よくわかる。</strong>優しさなのか、温もりなのか、一筋の光なのか。久々にその感覚を味わったので良しとした。幸い、文庫はまあまあ残っていたので、自粛中に出版されていた好きな作家の小説を、作家の名前だけ確認しただけで2冊軽々手に取って、レジに向かって歩く。<br><br><br>　レジ袋が有料になったため例の如く、『袋は有料ですが如何なさいますか？』と聞かれる。会計を済ませサブバックに自分で入れた本をぶら下げて向かう出口で、『傘を入れる細長い袋はどこの店やビルの入り口にも、今まで通りに用意されることが不思議でなりません』と、傘立ての無いこの店のドアをくぐりながら独り言ちて、今日のワタシをひとつ、落とす。<br><br><br><br><br><br>────────────────────<br><br><br>　改札を出て、地上への階段を昇る。<br>　視界に入る人のほとんどが傘を差していたが、霧雨に見えたので、傘を差すべきか悩む。地上に出てみると実は横殴りだったので、重い鞄を肩にかけ直し、結局傘を差す。<br><br><br>　右側からの風が強い。持ち主を守ることを諦めた傘。横から侵入する雨は首筋に当たる。書類と機器類で重い鞄が更に、重くなった氣がする。<br>　君があの日のように右側にいたら、雨に首筋を撫でられることもなかったのかな。<br><br><br>　こんな夜は、話がしたい。語りたいことは少ないはずなのに。日常に見えて非日常の、真実に見えて虚構の、氣づかないうちに入り込まれ蝕まれていく夜の、心許なさ。他愛もない話で氣が紛れるのなら、普段語らないことも語れる。<br><br><br>　何でもいい。君ともっと、話がしたかった。<br><br><br>　雨に濡れた路面に街灯と信号機の光が反射して伸びて、見ているとぐらぐらする。頭が痛かった。暗い。誰もいない。誰も見ていない。氣を引き締めるために結っていた髪をほどいて、今日のワタシをひとつ、落とす。<br><br><br><br><br><br>────────────────────<br><br><br>　長い一日が終わって、玄関のドアを開け入り、振り向いて鍵をかけた。<br><br><br>　靴を脱いだ。<br><br><br><br>　鞄を置いた。<br><br><br><br><br>　手を洗った。<br><br><br><br><br><br>　時計をはずした。<br><br><br><br><br><br><br>　ピアスをはずした。<br><br><br><br><br><br><br>　椅子に落下するように座って、溜息をひとつ、落とした。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>　やっとわたしが、息をした。<br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>（「帰り道の思考。」2020年7月25日 wrote）</p>



<p class="wp-block-paragraph"><br>　コロナ禍の異様な光景と自分の中にいつの間にか溜まってしまった疲れ。もう6年も前に書いたものだが、随分と元通りになったように感じる。夏でもマスクをしている人はいるし（特に飲食店でもないのにお店などで）、相変わらずアルコール消毒とかは置いてあるところが多いけれど、それでも、コロナ禍の時に感じていた閉塞感は微塵も感じられない。<br><br><br>　その時に溜め込んだものなんだろうか、人々は、以前にも増して良くも悪くも”主張”を強くするようになった。<br><br><br>　SNSでは誹謗中傷の問題は絶えない。そしてくだらないことでの議論が活発だ。人を幸せにするものなら良いが、そうではないケースも多い。発信する側の言葉足らずや表現の乏しさなどもあるが、決められた文字制限の中で自分の意図を伝えることが、いかに難しいことか。誰でも簡単にシェアできる仕組みも如何なものかと思うし、一般人の一投稿にいちいち自分の価値観や正義感を振りかざして「間違っている」と突き付けて、要らぬ争いを生むのもどうかと思う。<br><br><br>　SNSの世界はこんなにも醜いものかと思うと、ここで書いていることを公開するのも少々億劫になる。でも、本当に醜いのは、”主張”することが正義だと思っている風潮であり、また人間誰しも、そういう部分があるということを直視できずにいることにある。<br><br><br>　”主張”せねばならない時はある。でもそれは、余計な争いを生むような”主張”であってはならない。どうしても言いたいのなら、そうならないような言い方、伝え方があるし、匿名性があるからといって攻撃的になっていいわけではない。<br><br><br>　いろんな意見があっていい。みんな違ってみんないい。でもそれは、<strong>傍若無人に振る舞っていい理由にはならない。</strong><br><br><br>　誰かを攻撃しないと、誰かに勝ったような氣にならないと、誰かよりも優位でいるように感じられないと、自分を保てないようではいけない。それは、愛に基づいているとは到底いえないだろう。<br><br><br>　エゴはさまざまな場面で、段階で、つくられる。それは必ずしも悪いものではない。ある段階では自分を守ってくれる大切な一部分ではあるが、要らなくなったら手放さなければならない。それはある人にとっては、「乗り越える」と表現したほうが良いほど難しいこともあるが、一つひとつ、”ワタシ”を落として、本来の”わたし”に戻っていくよう、努力しなければならない。それが人の”成長”というものではなかろうか。<br><br><br>　SNSのガラの悪い書き込みや誹謗中傷に興じる人たちにしろ、本当に根っこからの悪人は少ないのだろうと信じたい。大多数の人は、本来善良な魂の持ち主なのだろうと思う。<br><br><br>　みんな好き勝手言っている。簡単に自分の意見を述べている。だから、自分も言いたくなるのはわかる。自分が是としないことを飄々と語っているのを見かけると、一言申し上げたくなるだろう。しかし、本当に愛に基づくならば、レベルが低いことであればあるほど真剣に取り合ってはいけない。子どもの喧嘩に一緒になって飛び込んでいく大人を格好いいと思うだろうか？本当に理知のある大人なら、当人同士が解決できるようにサポートこそすれ、自ら進んで当事者にはならないだろう。<br><br><br>　「波動」とかあまり言いたくないが、あまり波動の低いものに触れてばかりいると、氣づかないうちに呑み込まれてしまう。そして、感度の良い人ほど疲れて（憑かれて）しまう。<br><br><br>　あなたがもし、無駄にエネルギーを消費したくないのなら、SNSを漁る時間を減らすことだ。十分すぎるほど似たような投稿はある。もう本当は、お腹いっぱいなのでは？必要以上に見ないことが賢明だ。できた時間を好きなことに費やすほうが有意義だ。<br><br><br>　美味しいアイスクリームは、溶ける前に味わうから美味しいのだ。無駄に溶けてしまったアイスクリームは、見ているだけで虚しくなるだろう。時間も同じ。無駄に溶かすくらいなら、有意義に使ったほうがいい。<br><br><br>　当たり前のことなのに、それがなかなかできないのも人間の性。人間は愚かだ。だから、自分を上手く律することだ。<br><br><br>　つまり、”自律”すること。<br><br><br>　それが現代人には、足りていないのかもしれない。<br><br><br><br><br><br></p>
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